
先日、「大きな喪失体験による深い悲しみを抱える人に寄り添い、
その心が立ち直るよう支援するケアの実践講座」である、
神戸市主催の講座を受講しました。
講師は、グリーフパートナー歩み代表・下町グリーフ響和国代表・
社会福祉士の本郷由美子さん。
ご自身の深い喪失体験を契機に、上智大学グリーフケア研究所で学び、
心のケア活動をスタートされた方です。
テーマは「グリーフケア — 当事者と実践者の視点から —」。
20年以上にわたる活動と思いをお聞かせ下さいました。
<グリーフケアとは?>
「グリーフケア」とは悲嘆のケア、
つまり「目の前の人の悲しみに寄り添うこと」。
講師ご自身の経験から、
「寄り添い方」の具体例をお話しして下さいました。
かつて「何でも言ってね」と言われ、意を決してお願いした所、
「それは難しい」と言われてしまい、
かえって傷ついてしまったことがあったそうです。
だからこそ「何でもするよ」ではなく、
「〇〇ならできるよ」と具体的に伝えることが大切であるという、
実践的なお話をお聞かせ下さいました。
<声掛けの配慮>
相手を励まそうとしての声掛けが、
かえって悲しみを深くしてしまうことがあるということです。
例えば、「立ち直ったね」「乗り越えたね」といった言葉です。
決して「乗り越えた」わけではなく、
「一つひとつ乗り切っているだけ」。
そして、仮にそう言える時が来たとしても、
それを言えるのは「本人だけ」なのだということです。
<気持ちのゆらぎ>
湧き起こる様々な感情を表に出すことに、
当初はためらいがあったという講師の方。
そんな時、ある方から『あなたはおかしくなんてない。
感じたことを話すのに躊躇しないで』という手紙が届き、
救われたそうです。
紙に気持ちを書き出したり、
新聞紙をぐちゃぐちゃに丸めたりするうちに、
心にもほんの少しずつ柔らかい時間が持てるようになっていったとのこと。
それでも、穏やかな気持ちがずっと続くわけではなく、
心の「ゆらぎ」は続いていくのだと教えていただきました。
<ゆらぎの中での伴走者>
そのゆらぎの過程において、
伴走者がいてくれることがどれほど心強いか。
「悲嘆」は、人と関わり合いながら少しずつ落ち着いていくものなのだと
語って下さいました。
<日常の中で支えるグリーフケア>
「グリーフケア」と聞くと特別なものを想像しがちですが、
講師の方は「特別な人が行うものではなく、
日常の中で自然に営まれるもの」とおっしゃいます。
実際大きな体験の後、日常の家事がままならなかった時期に、
ご近所の方々が黙ってカットした野菜を1年間届けて下さり、
それを調理することで過ごすことが出来たそうです。
「悲しみを消すのではなく、悲しみと共に在てくれた」という温かい営みが、
とても大きな支えになったと言います。
<Not doing, but being.>
グリーフケアは、「地域の誰もが担い手になれる。
誰にでもその人にしかできないことがあり、
誰でもその一人になれる」と講師の方は語ります。
講座の最後に紹介されたのは、
近代ホスピスの生みの親、シシリー・ソンダースの言葉でした。
“Not doing, but being.”
(何かをするのではなく、ただそこにいること)
「日常の中にある悲しみに気づき、その声に耳を澄ませ、
そっと寄り添い合える優しい社会になりますように」。
講師からのメッセージをしっかりと受け取る、大切な機会となりました。
